【青天の霹靂】から始まった中国勤務 15年の奮闘により大成功に
30年近い間、小さな歯車として自分の意志とは関係無く、くるくる回り続けていた。そこに降って湧いたような中国への転勤内示。こんなことってあるのか…
成功のヒント 中国ことわざ・格言
鶏口と為るも牛後と為る無かれ
- 中国語:宁为鸡口,无为牛后 [ nìng wéi jī kǒu ,wú wéi niú hòu ]
- 出典:戦国策(韓策一)
- 原文:宁为鸡口,无为牛后(寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ)
- 意味:「鶏口」とは鶏の頭、「牛後」とは牛の尻のこと。大きなものの後ろにつき従うよりも、小さくても頭に立った方がよい、との意。
青天の霹靂
- 中国語:青天霹雳 [ qíng tiān pī lì ]
- 出典:宋·陆游《四日夜鸡未鸣起作》
- 意味:晴れた日に突然起きる雷のこと。思いがけなく起きる突然の出来事を例えた言葉。(もともとは筆の勢いが激しいことを例えた言葉)
白駒隙(げき)を過ぐ
- 中国語:白驹过隙 [ bái jū guò xì ]
- 原文:人生天地之间,若白驹之过隙,忽然而已。(人の天地の間に生くるは、白駒の隙を過ぐるが若く、忽然たるのみ)
- 出典:庄子(知北游)
- 意味:時間は過ぎるのが早いことの例え。人生とは、戸の隙間から白駒が走りすぎるのを見るように、ほんの一瞬のことにすぎない。
悠閑自在
- 中国語:悠闲自在 [ yōu xián zì zài ]
- 出典:遗愁集(忠义)
- 意味:のんびりして心地よいこと。心配や思い煩うことが無いこと。
烈士暮年、壮心已まず
- 中国語:烈士暮年,壮心不已 [ liè shì mù nián, zhuàng xīn bù yǐ ]
- 出典:曹操(步出夏门行·龟虽寿)
- 意味:雄々しい士は晩年を迎えても、心は若々しくチャレンジ精神を失わずに持っている。
記事:【青天の霹靂】から始まった中国勤務 15年の奮闘により大成功に
衝撃的な
人生には想像もしないことが起きる。社歴25年の普通のサラリーマン。49歳の時に中国勤務の内示を受けた。それこそが「青天の霹靂」。
何故なら、海外勤務の希望も無く、中国語は全くできない、パスポートすら持っていなかった。あまりに衝撃が大きすぎて、反って冷静であったことが意外であった。
二日間の逡巡の中で意を決した。そこから中国勤務が始まった。
歯車を回す
職務は中国現地の子会社の総経理(社長)。とはいえ、本社からの出向という身分ですから、何となく本流から外れたような気がしないわけではありません。
しかし、割り切ればこれも悪くはない。ことわざに「鶏口と為るも牛後と為る無かれ」とあるではないですか!
日本では「小さな歯車」。「あれはどうなった?」「今月の見通しはどうだ」等と、叱咤なのか激励なのか、上からの電話がしょっちゅうでしたが、中国現地では日本本社からのそんな電話はほぼ皆無。
むしろ、歯車を回す立場となり、現地会社の経営、運営という日本では経験のできない責任を負うことは、大きなやりがいとして感じます。
夕方はこんな感じ
中国現地会社の夕刻。定時が来ると仕事の切りが悪かろうがさっさと退社。10分も経つとオフィスはガランとしています。
社員達は定時で会社を出て、家に帰る途中のスーパーで夕食の材料を買い、晩御飯は家族揃って食卓を囲む、というとても人間的な暮らしぶりです。「悠閑自在」とでも言えるでしょうか。
日本では空が暗くなる前に退社することは考えもしませんでしたが、ここではそれが当たり前。ということで、社員の皆さんに倣って帰り支度。時には自分で晩御飯を準備。さらに仕事のことをあれこれ考える自分の時間も取れるのです。
豊かな暮らし
考えてみれば、人生はそう長くない。まして中国での駐在勤務はいつまで続くかわかりません。いずれにしても「白駒 隙を過ぐ」と、ほんの一瞬のことなのです。
ならば、可能な限り有意義に過ごしたいものです。朝早く家を出て、夜遅く帰り、まるで家には寝に帰るだけのような生活では、余りにも寂しいではないですか。
ひょっとしたら、中国での駐在生活は、実は日本で仕事をしていた時と比べて、はるかに人間的な暮らしができたように思います。
まだまだできるが
加えて有意義であったのは、日本全国から中国現地に来て仕事をしている多くの日本人の方と知り合いになることができたことです。
様々な方々との出会いを通して、日本に居たのでは得難い経験をすることもできました。それに、優秀な中国人の友人もたくさんできました。
何より、多くの方々の協力を得て、思いっきり仕事をすることができ、その結果、会社の業績は堂々たる結果を残せたことは大きな喜びとなりました。正に「一片の悔い無し」となりました。
そして、いつの間にか齢63歳となり、本社からは遂に本帰国命令が出されました。曹操が残した「烈士暮年、壮心已まず」との言葉のように、「まだまだできる」という思いは強くありましたが、本社には逆らえず15年の駐在を終えることになりました。